「伊賀寿太郎」の読み

伊賀寿太郎の姓名の区切りは、伊賀|寿太郎か、伊賀寿|太郎か。
歴史物語の『前太平記』では「伊賀寿」と略称してるから、これが姓の可能性がある。
鶴屋南北の『四天王櫓礎』では、ト書きに「寿太郎」とも「伊賀寿」ともあって決めかねる。登場人物の台詞では「伊賀寿」の略称が使われている。

次のサイトの説明では、Iga no Jutaro(伊賀|の|寿太郎)。
From the Harvard Art Museums’ collections Actor Ichikawa Danjûrô 7th as Iga no Jutaro, with poems by Ikyôan Toshinobu and Shicido Kenba f:id:ukine:20170321185926j:plain

次の絵の中では、役名を2行に分けて「伊賀寿」で切っているから、伊賀寿|太郎か。
歌川豊国: 「市川団十郎 伊賀寿太郎」 - 演劇博物館デジタル - 浮世絵検索
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次のサイトの英文説明では、Iga Jutarô(伊賀|寿太郎)。ただし、Onikiri Maru mimasu no kakutsuba とすべきタイトルの区切りを、Marumi masu に誤るなどの不備があり、必ずしも信用できない。
Kuniyoshi Project
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以上、調べてみたが答が出せない。
もしかすると、区切りが決まってなかったのかもしれない。

[追記 2017-03-25]『前太平記』に多くを拠った山東京伝『善知鳥安方忠義伝』(1806)では「伊賀寿」と略称している。とくに挿絵の説明で、

良門、山寨にいたりて伊賀寿太郎にあひ、妖術を施し姿を七人にみせて、太郎を味方に属せしむ。

と、「太郎」の略を用いているから、京伝は「伊賀寿|太郎」と読んでいたのがわかる。

[追記 2017-06-13] 『前太平記』巻第二に「爰に純友が腹心の者と頼みたる伊賀寿太郎、同じく次郎兄弟」とあるのを見逃していた。姓は「伊賀寿」と結論していいのではないか。

『今昔物語』の良門

平将門の遺児とされ江戸の芝居や小説で活躍する平良門(よしかど)はいつごろから知られた人物か。

今は昔、陸奥の国の国府に小松寺という寺あり。中ごろ一人の沙弥ありてその寺に住す。名をば蔵念という。これは平の将門が孫、良門が子なり。
──『今昔物語集』巻第十七第八話

Wikipediaの記事によれば、『今昔物語集』の成立は12世紀かとのこと、ただし同書が他の資料に見られるのは15世紀中頃からという。

謡曲「大江山」の一人武者

一人武者(独り武者)とは他にぬきんでた強い武者を意味し、人物の形容または代名詞的に使われる言葉なのだが、謡曲の「大江山」に出てくる一人武者には名前がない。

頼光「その主々は、頼光、保昌
供「貞光、季武、綱、金時
一人武者「また名を得たる一人武者
供「かれこれ以上五十余人

鬼神退治に向かう一行が謡曲大江山」の冒頭であげる名乗りによれば、主要メンバーは、源頼光、藤原(平井)保昌を筆頭に、碓井貞光卜部季武渡辺綱坂田金時のいわゆる頼光四天王、それに一人武者ということになる。他の人物がみな実名なのに、一人武者だけ代名詞的なのは何故か。
歌舞伎などで一人武者といえばたいがいは藤原保昌を指すが、この詞章ではあきらかに一人武者と保昌は別人。何者なのだ、この一人武者とだけ記された人物は。
謡曲「土蜘蛛」でも一人武者が、

これは音にも聞きつらん、頼光の御内にその名を得たる一人武者

と名乗る。「土蜘蛛」には藤原保昌が出てこないから、この一人武者が保昌であっても矛盾はないが、やはり一人武者とばかりで実名がないのは不審。

大江山」の一人武者とは何者か。ネットで検索したら、あっさり答が出てきた。すごいな、ネット。いや、それ以前に研究者のおかげなのだが。
で、こちらの論文「能《大江山》と『大江山絵詞』」によると、『酒呑童子物語絵詞』という絵巻に、

頼□□□□綱・公時・貞通・季武四人□□□□主従共に五騎也。保昌の□□□□宰小監ばかりなり

とあり、欠損はあるものの全体としては「頼光は四人の家来を従え、保昌は太宰少監だけを連れていた」と判断でき、一人武者の名称は保昌の家来が一人だけだったことに起因するという。
この太宰少監である保昌家来の実名は清原致信。のちに頼光の弟で「殺人上手」と言われた頼親に白昼襲われて殺害された。
古事談』が伝える話では、致信が襲われたとき、いっしょにいた妹の清少納言(当時五十歳ほど)も殺されそうになったが、陰部を見せて女であることを証し難を逃れた。