いそがしや沖の時雨の真帆片帆

これも『猿蓑』巻之一から。
真帆(まほ)は順風を受けて走るときの帆の張り方、片帆(かたほ)は横から風を受けて進むときの傾けた張り方。
ふいの時雨(しぐれ)に見舞われた舟があわてている。上五の「いそがしや」は孤舟よりも舟群を思わせ、そう解釈したほうがあわただしさがより迫ってくる。時雨は風の強さや向きの変化を伴う。それへの対応で、沖の舟が真帆・片帆をさかんに切り替えているのだろう。風雨の急変に会って走行の乱れた様子が活写され、語調もきれいな良い句だと思う。
ところがこれは失敗作なのだという。作者の去来自身がそう言ってるし、師の芭蕉も同意している。

猿ミのハ新風の始、時雨ハ此集の美目なるに、此句仕そこなひ侍る。たゞ有明や片帆にうけて一時雨といはゞ、いそがしやも、真帆もその内にこもりて、句のはしりよく心のねばりすくなからん。先師曰、沖の時雨といふも、又一ふしにてよし。されど句ハはるかにおとり侍るト也。──『去来抄』(『去来抄・三冊子・旅寝論』所収)

わかりにくい言い分だと思う。というより変だ。
  A. いそがしや沖の時雨の真帆片帆
  B. 有明や片帆にうけて一時雨
B のようにすれば、そこには「いそがしや」も「真帆」も含まれるというのだが、B はすこしも忙しそうではないし、「片帆」に「真帆」の意味が含まれるはずもなく、まったく理がとおっていない。上の『去来抄』から素直に受け取っていいのは、「また、ひとふしにてよし」という芭蕉の評だけではないか。

幸田露伴の『評釈猿蓑』をめくっていたら、別の句を論じた中で、「今伝わるところの去来抄、よくよく心して読むべし。まま芭蕉を誤り、去来を誤り、俳諧を誤るものあり」と述べ、さらに「今の去来抄をことごとく信ぜんは、信ぜざらんにはしかじ」とまで言っている。全面的に信じるくらいなら、まったく信じないほうがまし。俳句に親しんでいたら常識なのだろうが、『去来抄』はそういう書であるらしい。

amzn.to