男同士の相合傘


- Actors Sawamura Tosshô II as Hosokawa Katsumoto (R) and Ichikawa Sadanji I as Marigase Shûya (L) | Museum of Fine Arts, Boston

浮世絵のことはおいて、まず第2次大戦後まもない時期のディック・ミネのヒット曲から。

花のホールで 踊っちゃいても
春を持たない エトランゼ
男同士の 合々傘で
嵐呼ぶよな 夜が更ける
   ──島田磬也作詞「夜霧のブルース」

「地獄の顔」という映画の主題歌だという。見てないから、相合傘の場面があるのか知らないが、歌詞の読み方しだいでは男同士で踊ったかのようでもあって、かなりホモっぽい。これに限らず、男同士の友情や敵対を描いたものには、ホモ的気分がただようもので、

貴様と俺とは 同期の桜
同じ兵学校の 庭に咲く
   ──西條八十作詞「同期の桜」

西條八十の元詞が民間で歌われるあいだに歌詞が増殖したとされるこの戦時歌謡にも同じにおいがある。 やはり戦前のヒット曲で東海林太郎が歌った次の曲にも、

男ごゝろに 男がほれて
意気がとけ合う 赤城山
   ──矢島寵児作詞「名月赤城山

とあり、意気がとけ合うだけならまだしも、「意気」が「息」に聞こえたらかなり激しい。

歌舞伎で男同士の友愛や敵対を描いたものでは、
「おわけえの、お待ちなせえ」
「待てとおとどめなされしは」
の応答が見せ所の幡随院長兵衛と白井権八の出会いを描いた「鈴ケ森」、吉原中之町で名古屋山三と不破伴左衛門がやりあう「鞘当」が有名。
後者の「鞘当」では、仲裁に入った茶屋女房のすすめで、(なぜか)二人がたがいの刀身を取り替える。すると腰の鞘はそのままに、相手の刀がぴったり自分の鞘におさまるのだが、これを男色の隠喩と見たら曲解だろうか。もともと歌舞伎という演劇が、男が女を演じるという倒錯的基盤に立っていることを思えば、これくらいの深読みは許されるのではないか。
前者の「鈴ケ森」も、任侠映画における同士愛などを思い起こせば、同性愛的なものを感じ取たっとしても、まったくの見当はずれではないだろう。

後回しになったが、上にあげた浮世絵は由比正雪の事件を題材にした河竹黙阿弥作『樟紀流花見幕張』(くすのきりゅう はなみの まくはり)の一場面。
正雪一味の丸橋忠弥が酔ったふりをして江戸城の濠に石を投げ込み、水の深さを探っているところに、老中の松平伊豆守が傘をさして登場し、忠弥のうしろから傘をさしかける。自分に雨の降りかかってないことに気づいた忠弥がふりむくと、いかにも幕府高官かと見える衣装の人物がそこに。このあとの二人の笑いが、なかば意味不明で微妙。

忠弥 むむ。(ト笑いかける)
伊豆 はは。
両人 むむ、ははははは。(ト両人にったり笑い、忠弥生酔いの思い入れにて、)
忠弥 ええい。(トわざとよろよろと下手へ行く)
伊豆 こりゃ、その方は何をいたしおる。
忠弥 あんまり犬が吠えますから、石をぶっつけておりましたが、生酔いのことでございますから、当たりましたらご免なさいまし。

顔をあわせたとたんに二人は笑い出す。いったいどんな思いをこめた笑いなのか。この時点で伊豆守は忠弥の行動を怪しみ、忠弥は疑われたことを察している。とすれば、これはたがいに本心を隠すためのごまかし笑いなのだが、裏からいえば双方の気持が通じあったということでもある。やはりこの場面からも男色的気配を読み取ってもいいのではないか。敵対関係にあるのだから、逆同士愛とでもいうものだが、そのような関係を短い笑いで描き出したのが、この場面なのだと思う。

なお、上の浮世絵で役名が「細川勝元」になっているのは、政治問題を取り上げることを禁圧した幕府の文化政策をくぐるため、劇の時代背景を室町時代に移して老中のかわりに管領をもってきたからで、また「鞠ヶ瀬秋夜」とあるのは「丸橋忠弥」と音をかよわせたもの。上演されたのは明治に入ってからで、幕府の意向を恐れる必要がなくなっていたから、丸橋忠弥、松平伊豆の実名で演じられた。