我がせこが来べき宵なり、ささがにの…

歌舞伎や人形浄瑠璃の「我がせこが来べき宵なり、ささがにの──」は、蜘蛛の妖怪の出現を告げるフレーズ。オリジナルは『日本書紀』允恭紀にある衣通郎姫(そとおりのいらつめ)の歌。

我が夫子(せこ)が 来べき夕(よい)なり ささがねの 蜘蛛の行ひ 是夕(こよい)著(しる)しも

今夜はきっとあの人が来てくれるにちがいない、笹の根もとで蜘蛛が巣を張っているからそれがわかるの──というほどの意味。蜘蛛が人の衣に着くと客が訪れるという俗信が中国にあったとのことで、それを踏まえた歌という。
同じ歌が『古今集』に「衣通姫(そとおりひめ)の独りゐて帝を恋ひ奉りて」として収められている。「帝」は允恭天皇を指す。

わがせこが来べきよひなり さゝがにの蜘蛛のふるまひかねてしるしも

日本書紀』の「ささがね」が、『古今集』では「ささがに」に変わっている。『書紀』では「笹の根」を意味していたものが、音の類似から「ささ蟹」と解され、「ささ」が「小さい」意を持つことから蜘蛛を引き出す枕詞(または蜘蛛そのものの意)に転じたらしい。

この恋歌を妖怪出現の前触れに転用したのが謡曲「土蜘蛛」。
病に伏している源頼光の枕もとに、見知らぬ僧形の者が現れる。じつは蜘蛛の妖怪である。

僧「月清き夜半とも見えず雲霧の、かかれば曇る心かな。いかに頼光、御心地は何と御座候ぞ
頼光「不思議やな、誰とも知らぬ僧形の深更に及んで我を訪ふ。その名はいかにおぼつかな
僧「おろかの仰せ候や。悩み給ふもわがせこが来べき宵なりささがにの
頼光「蜘蛛の振る舞いかねてより、知らぬといふになほ近づく。姿は蜘蛛の如くなるが
僧「かくるや千筋の糸筋に

僧の出現を怪しむ頼光に、僧が「愚かなことをいうものだ。そなたが病に苦しんでいるのは蜘蛛のせい──」と言いかけると、頼光は「そんなものは知らぬ」と返すのだが、僧は正体をあらわしてさらに近づき、蜘蛛の糸を投げかけて頼光を絞め殺そうとする。すでに「ささがにの」が蜘蛛の枕詞として定着していたとすれば、それを土蜘蛛に適用するのは途方もない発想というわけではないだろうが、きれいな転用だと思う。

次のビデオは歌舞伎作者初世桜田治助の舞踊劇「蜘蛛の拍子舞」。1分過ぎるあたりで蜘蛛の精が登場し、「我がせこが来べき宵なり」と歌がはじまる。  

近松門左衛門人形浄瑠璃関八州繋馬』が謡曲「土蜘蛛」を発展させたものであることは一昨日の記事で書いた。