哀れで笑える相合傘

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艶二郎という商家のドラ息子、男前とはほど遠い人物なのだが、浮き名を立てたいとカネにあかせてあれこれ企てる。
まずは、はやり歌のレパートリーを広げておこうと、これが数十曲。女たちからの艶書もほしいと、偽造して部屋の状差しにはさんでおく。さらに浮気男の証拠にと、相手もいないのに両腕から指のまたまで入れた女名前の入れ墨が二十、三十。近所の芸者をカネでやとって、「艶二郎さんの女房になりたい。それがだめならせめて飯炊きをさせて」と我が家に駆けこませたりもする。
これほどやっても浮き名が立たないので、読売に噂を書かせて江戸市中にばらまくが、町内でさえ噂は広がらない。
こうなったら女郎買いしかないと吉原に繰り出して、ここでもあれこれやるのだが…。
しかし、せっかく外で遊んできても、家でやきもちを焼かれないのでは張り合いがない。そこで近所の年増女を妾にかかえると、こんどばかりは「それほど女に惚れられるのいやなら、そんないい男に生まれつかなければよかったのに」としっかり焼いてくれる。
どたばたはエスカレートして、艶二郎は心中を思いつく。色男として名をあげるには心中にしくはない、と。
いやがる女郎を、心中イベントを首尾よくつとめてくれたら好きな男と添わせてやると大金で身請けして、心中道行のさまはあとで歌舞伎に仕立てて上演させるつもり。小屋主には上演の資金を約束し、人気作者に台本を頼み、主演の役者の起用も決める。
芝居で見るような心中者にふさわしい揃いの衣装から、自殺のための脇差し、辞世の句まで準備おこたりなく、ただしカネで身請けしたと見られては色男らしくないから、足抜けのていを装って二階から女郎を連れ出し、茶屋、船宿、太鼓持ち、芸者らににぎやかに見送られて、あとはうれしい二人だけの道行という段取り。
もちろんウソ心中だから、どたんばで友人たちに引き止められて思いとどまるストーリーなのだが、そうなる前にどろぼうに襲われ、身ぐるみはがれましたというのが上の図。

以上、山東京伝の絵入り小説『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』(『黄表紙 洒落本集』所収)による。道行を襲ったどろぼうは、じつは親が手配したヤラセで、これを機に艶二郎は心を改め、身請けされた女郎も艶二郎が醜男なのをがまんして妻におさまり、もともと裕福な商家なのだが末もますます繁盛しましたというめでたい結末。べつに哀れでもないか。

芭蕉が読み違えた其角の秀句

これも『猿蓑』の句。明治の俳人内藤鳴雪が「其角集中第一等の傑作」と評したという。

この木戸や鎖のさゝれて冬の月  其角

「鎖」は「錠」と同じ。したがって中七の読みは、ジョウノササレテ。
其角はこの句の下五を「冬の月」とするか「霜の月」かで決めかねていたが、師の芭蕉は悩むほどの句ではあるまいとして「冬の月」に決めて『猿蓑』に採録した。
ところが、『猿蓑』が印刷工程に入ったあとで、「鎖のさゝれて」が『平家物語』を踏まえていることに芭蕉は気づく。左大臣の徳大寺実定が遷都先の福原から京の旧御所をたずねたくだりに「禁門は鎖のさゝれて候ぞ」とあり、ならば「この木戸」は城門でなければならず、句の描く光景は雄大なものとなる。
じつは、この句の初稿では「此木戸や」と漢字が使われていて、芭蕉はこれを「柴ノ戸」と読み違えた。縦書きで「此」に「木」が続けば、「柴」に見誤るのはありうることだが、わびしさの例えにも使われる柴の門と御所の総門ではまるでおもむきが異なる。芭蕉がこの違いに気づいたのは旅先の大津でだったが、

柴戸にあらず、此木戸也、かゝる秀逸は一句も大切なれば、たとえ出板に及ぶともいそぎ改むべし

と手紙を送って改版を命じた。たとえ出版後でもやり直せというのだから、『猿蓑』中でもこの句を重いものと見たことがわかる。
句の成立事情は、其角の没後にその弟子が編んだ俳諧集で伝えられ、友人と酒を飲んだ其角が家路をたどる途次、市ヶ谷に至って詠んだものという。市ヶ谷には江戸城の市谷御門があった。

その城門が、折柄月下にぴつたり屹立してゐたのである。それは威圧が直ちに美しさにもなつてゐる不思議な景であつた。
──荻野清『猿蓑俳句研究』

昼のミミズクのとぼけ顔

これも『猿蓑』の句。

木菟やおもひ切たる昼の面  芥境

ミミズクヤオモイキッタルヒルノツラ。
「おもひ切たる」は、悟りすました様ともいえるし、そんな境地は通りこしてただボケてるだけともいえるが、どちらかといえば後者に近く感じる。夜は猛禽のミミズクなのに、昼間はなんと緩んでいることよ。

ミヽづくハ眠る處をさゝれけり  半残

ミミズクハネムルトコロヲササレケリ。
「さゝれけり」は鳥もち竿で刺されてしまったの意。ぼんやりしているものだから、あっさり捕らえられてしまった、と。
この句のペーソスはミミズクを主体にしたところにあり、かりに「木菟の眠る処をさしにけり」としてみれば違いがわかる、と荻野清『猿蓑俳句研究』の説。

両句はいずれも『猿蓑』の冬の部にあり、ミミズクが冬の季語として働いているが、『猿蓑』が編まれた元禄年間にはまだ季語としての地位は不安定で、冬の季語として一般化するのは天明以降という。これも『猿蓑俳句研究』の説。元禄から天明までは90年ほど。