女と同じ、ばかな奴らだ。

秀吉死す──。伏見城から流れだした知らせに接して、豊臣秀吉晩年の悪政に苦しんでいた民のあいだに歓声が広がっていく。太閤の死を見とどけた徳川家康は、ひとり城頭にのぼってその声を聞く。

 家康は、よろこびにどよめく暗い下界を見わたして、苦っぽく笑った。いまこそ民衆はあの男の死を悦んでも、やがて大地に穴があいたような寂寥をおぼえ、そして巨大な像をみずから作って、その穴を埋めるであろう。あらんかぎりの人間の欲望と力を発揮した英雄の幻影の像で。美化された嘘っぱちの英雄伝で。
 古来、民衆というものは、平和をもたらした人間よりも、おのれたちを蹂躙した人間を崇め、愛するようにさえなる、女と同じ、ばかな奴らだ。    ──山田風太郎『妖説太閤記

「女と同じ」はヒトラー『我が闘争』が下敷きか。作者が伏見城頭の家康に言わせた民と英雄のかかわりは、「大衆は無知で愚昧、女と同じだ」と公言しながら大衆の支持を得たヒトラーを思い起こさせる。

『妖説太閤記』は秀吉の無惨な心性をこれでもかこれでもかと描いた歴史小説の傑作。強い者にはへつらい、弱い者はいためつけ、恩人であろうと友人であろうと己の欲望のために利用しつくす。人はここまで下劣に生きられるのか。英雄とはこんな人物なのか。──
と、こんなふうに紹介すると、読むに耐えない陰惨な物語のように思われるかもしれないが、読書体験としてはまったく逆。「惨憺たるものだな、おれの人生は」という若い秀吉の絶望感を小説の冒頭に置いた作者の詐術によって読者は秀吉と一体化し、ときにはあまりの汚いやり口に違和感をおぼえることはあっても、結局は秀吉の行状を肯定し、共感をもって読み進めることになる。
作者は批評的なエクスキューズをはさまず、ただただ秀吉の行為や思いを愉快に肯定的に語って、だが結果としては秀吉の悪行を描ききった。そんなひどいやつだったのか秀吉は、と読者が夢からさめるのは、すべてが終わった秀吉の死後。秀吉にしてやられた多くの登場人物たちと同様、まんまと読者も作者にしてやられたのである。いや、それこそ物語読者の快感ではあるのだが。
歴史上のビッグネームをあがめ奉ることがなく、ほとんど共感も語ったことのない山田風太郎ならではの英雄像だと思う。印刷本が現状品切れらしいが、常時書店にあってもいい超一級の歴史物語。

ところで、「大衆は女だ」。大衆や女性をばかにしながら(むしろ、ばかにすることで)大衆の心をつかむ政治が有効になる条件は?