相合傘小史

「パリの相合傘は19世紀前半からか」と前のエントリーで書いた。では、日本はいつごろからか。

だんとつに早い例は次のもの。ただし、これが相合傘のことならばだが。

君と我、南東の相傘で、逢はで浮き名の立つ身よの
- 小野恭靖「『隆達節歌謡』全歌集」

「慶長四年八月豊臣秀頼献上本下書」という文書にあるという。
「南東(みなみひがし)の相傘で」の意味がわからないが、全体としては「離れていて会えないのに、浮き名ばかりが立つことよ」くらいの意味か。同じ歌が『日本庶民文化史料集成』第五巻に収められているという。
文書の日付である慶長4年(1599)は関ヶ原戦の前年。ほかの例に比べて早すぎし、意味も理解できていないので、これが最初期のものかは保留。

絵画などでの相合傘のはじまりを論じた次の研究がネットで公開されている。
- 金志賢「相合傘図像の源流を探る-井原西鶴『好色一代男』と菱川師宣『やまとゑの根元』の間」
これによると、大阪で出版された『好色一代男』(1682年)の江戸における焼き直し版である『やまとゑの根元』(1688年)で描かれた相合傘が、今のところ最初期のもの。また、同時代の英一蝶にも相合傘の図があるとのこと。

『江戸語の辞典』は用例として次の『津國女夫池』をあげている。時代が下れば用例はいくらでもあるから、最も古そうなものをあげたのではないか。近松門左衛門の『津國女夫池』は1721年初演の人形浄瑠璃

君と淀とが、相合傘の袖と袖、煙草恋草伽となり、煙吹き交ぜちらちらと、頭に雪の置き頭巾…

ネットでみつけた最も早い時期の画像は、次の石川豊信の浮世絵。原題不明だが、英文によれば「恋人役の佐野川市松と瀬川菊次郎」。1752年の作という。
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- Honolulu Museum of Art » Sanogawa Ichimatsu and Segawa Kikujirö as Lovers

以上の例(少ないが)で考えると、相合傘は17世紀の末ぐらいから人々に意識され、18世紀前半に言葉として定着したのではないか。

相合傘関連記事:
- 相合傘の逐語訳
- 相合傘における男女の位置関係
- 哀れで笑える相合傘
- 男同士の相合傘
- パリの相合傘、はじまりは19世紀前半か

[2017-02-26 追記] 上の浮世絵より数年前と見られる版画。
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- Shared Umbrellas, a Triptych (Aigasa sanpukutsui) | Museum of Fine Arts, Boston

1740年代の紅摺絵。タイトルは「相傘三幅対」。
若い女性客をあてこんだ刷り物という感じがする。いいなあ、あたしもこんなことがしてみたい──といった客層。三幅対の真ん中に町人風の男女を置いたのも、客層に対応したものか。
どの人物も顔が優しくて女性的だが、左側の図(「右」とあるが)の一人は刀を差しているから男だろう。一本差しだから町人かもしれない。右側の図は女同士か。
万月堂は姓名・経歴不詳の浮世絵師という。

パリの相合傘、はじまりは19世紀前半か

1910年にパリで発表された『広い襟ぐりとあげ裾』の一節。(『パサージュ論』第1巻から孫引き)

今やもう扇子ではなく、傘である、まったく国民衛兵的国王の時代にふさわしい発明だ。恋の戯れに好都合な傘! 目につかない物陰がわりの傘。

男女が人目に隠れていちゃつく小道具として、「国民衛兵的国王の時代」にそれまでの扇子から傘が取って代わったという。
著者のジョン・グラン=カルトレ(1850-1927)は、政治、風俗、歴史と広い分野を手がけたフランスのジャーナリスト。「国民衛兵的国王」がルイ=フィリップ(在位1830-1848)を指すとして、パリまたはフランスにおける相合傘のはじまりは19世紀前半ということになる。

これは19世紀後半、1877年に描かれたパリの相合傘。
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- Gustave Caillebotte - Jour de pluie à Paris - Rue de Paris, temps de pluie — Wikipédia

いそがしや沖の時雨の真帆片帆

これも『猿蓑』巻之一から。
真帆(まほ)は順風を受けて走るときの帆の張り方、片帆(かたほ)は横から風を受けて進むときの傾けた張り方。
ふいの時雨(しぐれ)に見舞われた舟があわてている。上五の「いそがしや」は孤舟よりも舟群を思わせ、そう解釈したほうがあわただしさがより迫ってくる。時雨は風の強さや向きの変化を伴う。それへの対応で、沖の舟が真帆・片帆をさかんに切り替えているのだろう。風雨の急変に会って走行の乱れた様子が活写され、語調もきれいな良い句だと思う。
ところがこれは失敗作なのだという。作者の去来自身がそう言ってるし、師の芭蕉も同意している。

猿ミのハ新風の始、時雨ハ此集の美目なるに、此句仕そこなひ侍る。たゞ有明や片帆にうけて一時雨といはゞ、いそがしやも、真帆もその内にこもりて、句のはしりよく心のねばりすくなからん。先師曰、沖の時雨といふも、又一ふしにてよし。されど句ハはるかにおとり侍るト也。──『去来抄』(『去来抄・三冊子・旅寝論』所収)

わかりにくい言い分だと思う。というより変だ。
  A. いそがしや沖の時雨の真帆片帆
  B. 有明や片帆にうけて一時雨
B のようにすれば、そこには「いそがしや」も「真帆」も含まれるというのだが、B はすこしも忙しそうではないし、「片帆」に「真帆」の意味が含まれるはずもなく、まったく理がとおっていない。上の『去来抄』から素直に受け取っていいのは、「また、ひとふしにてよし」という芭蕉の評だけではないか。

幸田露伴の『評釈猿蓑』をめくっていたら、別の句を論じた中で、「今伝わるところの去来抄、よくよく心して読むべし。まま芭蕉を誤り、去来を誤り、俳諧を誤るものあり」と述べ、さらに「今の去来抄をことごとく信ぜんは、信ぜざらんにはしかじ」とまで言っている。全面的に信じるくらいなら、まったく信じないほうがまし。俳句に親しんでいたら常識なのだろうが、『去来抄』はそういう書であるらしい。

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